宮崎千恵の「女性医師の覚悟」①〜産婦人科医に導かれ〜

宮崎千恵医師
INTERVIEW

医師になったきっかけ

 皆さん、こんにちは。私は、岐阜県岐阜市で産科婦人科クリニックを営んでいる宮崎千恵と申します。

 最近女性医師が大変増えてきて、素晴らしいことだと思いますが、その一方で、

「女性が人間の命を預かる医師としての仕事を、一生涯続けていくには、どの程度の覚悟を持って望むのか?」

 といった若い方々のモチベーションを知りたい気持ちがあります。そこで、「私の医師としての約50年間の経験などをお話しする機会をいただけたら」と、インタビューを受ける機会をいただきました。

 私は今年、76歳になります。

 現在も、医師としても現役で働いていますが、最近時として、「引退」のタイミングをどうするか?などと考える事もあります。

 有り難いことに、「私は、産婦人科医になって本当に良かった」と今でも、そう胸を張って言うことができます。私の医師としての人生は、山あり谷ありでしたが、常に何かに向けて全力で取り組んできたという自負があるからです。

 そもそも、私が医師になったきっかけは、母がリウマチを患っていて大変病弱であったことで、漠然と子供心に「私はお医者様になって、お母さんの病気を治してあげるの」等と周囲の人に言っていました。

 高校2年頃、文芸部活動をする内に、ジャーナリストを志すなど、進路についての考えが脇道にそれたこともありますが、結局、母の強い希望もあり、長い浪人期間を経て、久留米大学医学部に入学しました。

 浪人時代は、本当に医師になりたいのかどうか、まだ迷っていましたから、久留米大学に入学後も、将来の目的が定まらず、テニスと麻雀や、ボーイフレンドとのデートなどに明け暮れていたような気がします。

 しかし、強く記憶に残っているのは、ある時、男の同級生から、「君たち、6人の女子が入学したおかげで、俺の友人達6人の男子が入学できなかった。どうせ君たちは嫁に行って、医師を辞めてしまうだろうから、国にとっては莫大な損失だぞ!」 と言われたことです。その瞬間は、本当に頭にきましたが、この言葉は、その後、私の人生に訪れる節目には、必ずといっていいほど、頭をよぎる言葉でもありました。

産婦人科医師としてやっていけるか?

 卒業間際になっても、医療に対してのはっきりとした目標がなく、何となく外科系に行きたいという程度の気持ちで、何科に入局するのかさえ決まっていませんでした。そんなある日、東京女子医大卒の産婦人科医局員数人の先輩達からの入局勧誘会で、「女性でも産婦人科医としてやっていけるでしょう?」 という私の質問に、「私たちでもやっていられるのだから大丈夫よ!」 と答えられ、その一言が私を産婦人科医に導いたように思います。

 ただ、それをすぐに一生の仕事にするかどうかは決断できず、私は、とりあえず全身管理を学べる麻酔科の大学院に進んで、4年後学位を取得してからじっくりと考えてから決めることにしました。

 こうして、私の暢気な大学時代は終わりを告げ、卒業・麻酔科入局と同時に、それこそ1日中、眠る暇もなく研究と、医師となるトレーニングに追われる大学院生活は、地獄のような日々が始まったのです。

 しかし、この4年間は私の産婦人科医師としての診療姿勢の心構えを鍛えるに充分なものでした。結果として産婦人科のトレーニングは4年遅れてしまいました。丁度、鹿児島市立病院で、超未熟児である五つ子が、全員無事に生まれるというニュースが全国的に拡がり流れ、どんなハイリスクなお産でも、母親と新生児の両方を絶対助けなければならないと言った、産科医にとって大変厳しい社会環境に激変して行った時代でした。ですから、その厳しさから逃げ出したいことがあっても、私がくじけずに1年半のレジデント期間を終えることができたのは、この4年間の大学院でのトレーニングの蓄積があったからだと思います。【続】

 

宮崎千恵(みやざき・ちえ)

宮崎千惠婦人クリニック院長。岐阜県出身。1972年、久留米大学医学部医学科卒業。76年、同大学大学院医学研究科(博士課程)修了。岐阜大学産婦人科入局、岐阜市民病院勤務を経て、80年に開業。(公社)日本女医会理事、日本医師会女性医師懇談会委員、岐阜地区女医会会長、岐阜県産婦人科医会会長等を歴任。現在、(一般社団法人)医療政策を提言する女性医師の会(JAMTOP)代表理事など。全ての女性が自分らしいキャリアを創るために尽力。

 

 

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