小児科医・自見はなこの「政治家への道」①〜政治家への強い抵抗感
ドクターファミリーに生まれて
みなさん、こんにちは。自民党参議院議員の自見はなこです。
私は小児科医から政治家になりました。
本サイトは医療系ということですので、私の医師としてのキャリアや、私が力を入れている女性医療職のための勤務環境作り等について、お話させていただきたいと思います。
実は私は、昔から医師や政治家になりたいと思っていたわけではありません。特に、政治家という職業には、強い抵抗がありました。
私が小学校2年生の時に、父・自見庄三郎が九州大学第一内科医局長を辞めて政治家になりました。以来、政治家の家族としての苦労は常についてまわりました。父の仕事を目の当たりにして、「公人」が、いかに大変で、重い責任を伴う職業であるか、子どもだった私にもひしひしと伝わってきました。私のような普通の人間がなれるものでもないし、なっていいものでもないと思っていました。私は政治家という職業に「畏怖」の念を抱いていました。それは今も変わりません。
医者一家である自見家では、おじ、おば、30人以上いるいとこも、ほとんどが医者になるか医者に嫁ぐかです。まさにドクターファミリーです。しかし私は、そうした環境に反抗して、大学は筑波大学第三学群(現社会・国際学群)国際関係学類に入学しました。
でも、結局は、人に直接ふれる職業がいいなと思い至り、筑波大学卒業後に東海大学医学部に学士編入しました。両親には学費の負担をかけたなと思いますが、今になってみれば、国際関係の勉強をしたことで、WHOの政策や方針についても多面的に理解ができ、政治家としての糧になっていると感じます。よく、人生に無駄なことはないといいますが、改めてそう思います。
小児科を選択したのは、単純に子どもが大好きだったからです。見ているだけで、本当にかわいい。
苦労するなら、好きな科を選びなさい
研修の時に、「どうせ苦労するのだから、好きな科を選びなさい。どこに行っても始めの5年、10年は本当に大変なのだから、好きな科を選ぶといいですよ」と、先生にアドバイスを受けて、決めました。
小児科医は、本当に楽しかった。もし生まれ変わってまた医者になっても、小児科を選びます。
そうして、38歳まで生きてきました。
そんなある日、私が政治家になろうと決めた出来事があったのです。
当時私は、虎の門病院の小児科で勤務医をしていたのですが、ある日、当直をしていたら、ハワイ在住の女性から相談の電話が架かってきました。
「小学校中学年の娘をホームステイに出したのですが、『お母さん、お腹が痛い』という連絡があったんです。どうしたらいいかわからず、ネットで虎の門病院を探して、英語の記載もあったので、電話をしました」
私が、症状について聞くと、軽い胃腸炎だと思われたので、
「血便が出たら、夜中でもきてくださいね」
という応対をしました。
日本なら当たり前の無料の電話相談ですよね。ところがこのお母さんは、会話をしている間に私が、「医師である」ことがわかった瞬間、大声で泣き始めた。驚いて、私が理由を尋ねると、
「自分の入っている民間の医療保険は、安いタイプなので、医師と話すことができないし、夜中に病院も行けない。でも、日本では気軽に医師と話すことができて、その上、夜中でもいいので受診してくださいなんて、日本って、なんていい国なのでしょう」
と、何度も感謝して電話を切りました。
私は、いつものように3階の当直室から、1階の救急センターのナースに報告しようと思って階段を降りていたのですが、突然、頭を殴られたような気持ちになりました。アメリカの高校に留学していたので、アメリカの医療事情については知っているつもりでしが、こんなに切ないのだと愕然としました。
国民皆保険こそ、政治家が守らなければいけない制度
私は、政治家という職業を否定的に捉えてはいましたが、父が長年政治家を務め、郵政民営化の時には、制度を守る側に立って必死に闘っていたのを見ていて、政治でしか守れないものがあるということがわかっていました。
そして、国民皆保険こそ、政治家が守らなければならない制度だと私は思いました。保険証1枚で医療を受けられる制度が日本からなくなったら、私も小児科医を続けられなくなる。日本の医療従事者はすべての人を診ることを当たり前だと考えている。その人の経済的ステータスによって、受けられる治療が異なるということは受け容れられない。小児科医は特にそう思うでしょう。喘息の子どものひとりは入院させて、ひとりは断るなんて、それは、決して許されることではないと思いました。私は、もう38歳になった。いつまでも、団塊の世代、お父さん世代に甘えているわけにはいかない。責任は私たちが役割を担う時代になったのだと思いました。政治家という職業を初めて身近に感じた瞬間でした。【続】